「死ねば皇帝も奴隷も同じ」、だが・・・

人生哲学

読売新聞の人生相談に次のようなものがありました。

[人生案内]高2女子「なぜ人は死ぬの」

 高校2年の女子。最近、「死」について考えてしまいます。 ・・・

相談者は、高2女子。これから勉強や経験をして成長していっても、最後には死んでしまう。死んでしまうなら、これまでの自分の人生はなんだったのだろうと考えてしまう。

また、数年前に経験した祖父の死の経験から、今後も家族の死もいつか迎えなければならないし、そして自分自身にも死が訪れることも怖い。死とはいったい何なのでしょうという相談です。

高校2年生といえば、16、17歳くらいでしょうか。身近な人の死を経験したことで、「死」について考えるようになったようですね。

これはとても深い相談だと思います。私は「死」の問題こそ、人生で最も重要な問題だと考えているからです。

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みんな死なないかのように生きている

「死」とは、人生最大の問題といってもよい。

世の中の多くの人は気付いていません(いや、気付かないふりをしている)が、最大の問題は、少子高齢化問題でも、環境問題でも、日本の財政問題でも、新型コロナ問題でもなく、「自分自身の死」の問題なのです。

いつかはわからないけれど、絶対に死ぬのです。つまりは、人生の時間は限られている。その有限の時間をどう生きるのか。この問題以上に取り組むべき問題はありません。

私の場合は、この問題を考えた結果、ひとつの方法として「セミリタイア」という生き方に魅力を感じるようになったのです。

ところが、世の中の多くの人は自分が死なないかのように生きているようにしか見えないのです。

いや、本当は分かっているのです。何をしてもどうせ死んでしまうことは、分かっているのです。

でも、それを認めてしまうと自分が生きている意味がなくなってしまう。生きていけそうになくなる。だから、「青臭い考え」としてフタをして、まるで死ぬことがないかのように、「どうでもいいこと」をやっているのです。

しかし、現実はこうです。世の中の多くの問題は「さしあたり」重要なことです。なぜなら、いつか自分は死ぬし、人類もいつか絶滅するし、地球も太陽もいつか消滅してしまうのですから。

死ねば皇帝も奴隷も同じ

こういう、ある意味「諦観」ともいうべき観念をもった人は古代にもいました。

古代ローマ皇帝マルクス・アウレリウスはこんな言葉を残しています。

死ねば皇帝も奴隷も同じ

また、同じくローマ皇帝セプティミウス・セヴェルスは、死に際してこんな言葉を残しています。

わたしは、すべてをやった。元老院議員でもあった。弁護士もやった。執政官も務めた。大隊長もやった。将軍でもあった。そして、皇帝もやったのだ。つまりは、国家の要職はすべて経験し、しかも充分に勤め上げたという自身ならばある。

だが、今になってみると、そのすべてが無駄であったようだ。

皇帝であろうと、奴隷であろうと、死ねば灰になって同じなのです。だから、高校生の疑問は真理を突いているのです。

人生の最期にはセプティミウス・セヴェルスのように「何のために生きてきたのだろう。すべては無駄だった」と思うものなのでしょうか。

ある意味どのように生きようと、宇宙論的視点から見ればすべてが無駄であることに違いはありません。ノーベル賞をとろうが、金メダルを獲ろうが、多くの人の命を救おうが、結局はすべてが「無」に帰すのですから。

「どうせ死んでしまうのに、なぜ生きるのか」

みんなその答えを考えてきましたが、いまだにその答えは出ていないのです。というよりは、自分自身で答えを考えること、それこそが生きる理由なのかもしませんね。

私自身は人生に生きる意味はないと思っています。たまたま、この世に生まれたということなのですから。だからこそ、自分でその意味を与えてしまえばよいのです。

「人生に生きる価値はない」からこそ自分で価値を見つけよう
人が生まれるのも死ぬのも、苦しむのも楽しむのも、何の意味もない。人類も地球もどうせ消滅するのだから、この世のすべてに意味はない。だからこそ、好き勝手な価値を創造し、自分の奥底から湧きだす欲望の実現に励むのだ。

しかし、「死ねば皇帝も奴隷も同じ」ですが、「死ぬまでは同じではない」ことも事実です。

人生の最期には、すべてが無駄だったと思うかもしれない。しかし、なんとなく生きてしまって無駄だったと思うのと、すべてが無駄だと納得して自分のやりたいこと、自分の望む生き方をするのでは違うように思います。

私も早くセミリタイアして、本当に「どうでもいいこと」にできるだけ関わらないようにして、限られた人生の時間を自分が納得できるように生きたいと思います。