【200年早すぎた男】皇帝フリードリッヒ2世の生涯とは?

書評

「ローマ人の物語」で知られる塩野七生氏の著書「皇帝フリードリッヒ2世の生涯」を読みました。

中世の神聖ローマ帝国の皇帝、そしてシチリア王国の王として君臨し、既存の価値観にとらわれることなく自らの信念を貫いて時代を駆け抜けた「反逆児」の生涯を描いた作品です。

フリードリッヒの時代からおよそ200年後に訪れるルネサンスを先取りしたような人物で、「玉座に座った最初の近代人」とも言われる彼の生涯は、どのようなものだったのでしょう。

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無血十字軍

フリードリッヒの業績で有名なのが「無血十字軍」です。

フリードリッヒが生きた13世紀、いわゆる中世の時代は、キリスト教が絶対的な存在となっていました。

そんな中でローマ法王が主導して始まったのが「十字軍」です。イスラムの支配下にある聖地イェルサレムを奪回すること、それが目的です。

 

「神がそれを望んでおられる」

 

というスローガンの下、始まった十字軍ですが、一旦はイェルサレムの奪回に成功するものの、再びイスラムが奪回し直すという状態となっていました。

ローマ法王は、しきりにフリードリッヒに十字軍を率いて遠征するように呼びかけます。

キリスト教が絶対的な存在となっていたこの時代、十字軍に行ってイスラム教徒を血祭りに上げることが「キリスト教徒の正しい姿勢」とされ、世俗の最高権力者である皇帝はなおのこと、その責務があるとされていました。

フリードリッヒもこの世論を無視することはできません。無視すれば自らの失脚にもつながる非常に政治的な課題だったのです。

フリードリッヒも軍勢を率いて中東まで遠征したものの、実際はイスラムのスルタンとの交渉で問題を解決しようとします。決して、彼が平和主義者であったということではなく、それが現実的だからだったに過ぎないのですが。

キリスト教とイスラム教が領土を争うという形では絶対に決着せず、お互いの信仰の自由を認めあう形でしか解決できないと確信していたのです。こんな発想は純粋で信仰心に篤いキリスト教徒であれば絶対にしなかったでしょう。イスラム教徒の首をたくさんとるほど、天国に行けると本気で信じていたのですから。

交渉相手のスルタンも現実的な人間だったらしく、現実主義者同士であれば常に妥協は成立します。

軍事力も背景にしながら粘り強く交渉した結果、イェルサレムのイスラム地区を除いた部分をキリスト教側に譲渡させることに成功します。併せて向こう10年間の相互不可侵条約ともいうべき協定も結びます。

これがいわゆる「無血十字軍」です。

人的犠牲も出さず、目的である聖地イェルサレムもキリスト教のもとになり、向こう10年の平和を実現したことで、ヨーロッパからの巡礼も安全に行けるようになりました。

さぞ、ローマ法王も喜んだかというと、まったく逆だったのです。

アンチ・キリスト

ローマ法王はフリードリッヒを「アンチ・キリスト」と認定し、破門にしたのです。

なぜ、フリードリッヒがアンチ・キリスト、つまり「キリストの敵」とされたかというと、キリストの敵であるイスラムと交渉し(イスラムと交渉すること自体が許されざる行為)、そしてなによりイェルサレムはキリスト教徒が血を流して奪回すべきものだから、となります。

ちなみに、こののちフランス王ルイ9世が十字軍を率いて遠征するのですが、王自身が捕虜となるなど惨憺たる結果に終わり、王も2度目の遠征先で亡くなるというまさに大失敗になります。ところが、このルイ9世は「聖人」に列せられるのです。

どうも、キリスト教的には結果よりも過程が重要視されていたらしい。

聖地奪回に失敗したルイ9世が「聖人」となり、聖地回復を果たしたフリードリッヒが裏切り者として「アンチ・キリスト」となるのですから、皮肉なものです。いかにこの中世の時代がキリスト教のイデオロギーでガチガチだったかが分かります。

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衝突と摩擦を恐れず信念に生きる

十字軍でもそうですが、キリスト教的価値観を全面に出すローマ法王との衝突と対立が彼の生涯になります。

彼が目指していたのが「法治国家」そして、今で言う「政教分離」です。近代国家につながるものですね。

「法王は太陽であり、皇帝は月である」と公言してはばからない法王とは違って、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」といったイエスの言葉に立ち返ろうというものに過ぎなかったのですが。

まさに時代を先取りした考えをもっていたわけですね。

こうなればローマ法王がフリードリッヒを目の敵にするのは当然です。教会の権威をおとしめることになるのですから。

結局、フリードリッヒは3度も(3度も!)破門されるのですが、破門されても平然としているのがまた彼らしいところです。

そうした摩擦や衝突を恐れず、そして既存の価値観にとらわれることなく、自分の信念に基づいて突っ走るフリードリッヒは”カッコイイ”の一言。

既存の価値観を疑ってみる

キリスト教的な価値観が支配していた中世の時代は、今から見ると滑稽でもあるのですが(その代表例がかの有名な「異端裁判」)、果たして現代の我々に彼らを笑う資格はあるのでしょうか。

知らず知らずのうちに、世間で「当たり前」とされている価値観を無条件で受け入れて生きていないでしょうか。

「生涯現役」「人生100年時代」「絆(きずな)」「仲間」「人は一人では生きられない」「助け合い」「働かざるもの食うべからず」「生かされていることに感謝」「夢は必ずかなう」・・・・・

みんな当然のように押し付けてくるけど、ホント?って思ってしまうんです。でもこれに反することを言うと、「おかしいやつ」とされる。つまり「異端者」になるわけで。これって中世と同じなのでは?

とはいえ、そこから抜け出して冷徹に現実を見ることができる人間は多くありません。

カエサルもこう言っているのですから。

人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない - ユリウス・カエサル

セミリタイアも”異端”なのでしょうね。世間から「破門」されること間違いなし。

それでもフリードリッヒのように自分のしたいようにやればよいのです。たとえ「破門」されたとしても・・・

書評
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